しています。
9時ぐらいに起きて
健康に著しく悪いモノを食べて
11時まで起きたり寝たり。
そして今、ブログの整理しています。
過去記事読むと(いつもそうなんですが・・・汗)
「あばれてるなぁ」って
ぷーって笑いたくなります。
時々本気で「バカだこいつ」とか
思います。
(突如感情の赴くまま動いてるあたりとか・・・)
生の声を「記録」して、後で読み返すのは
一人羞恥プレイ状態ですが、結構楽しいです。
実は、昨日(!?)はすんごい久しぶりに「しあわせ」を感じた日でした。
今日は、まあまあです。
そして週明けからデイケアのYGキャンプ(治療キャンプ)に参加します!
(前後の文章に関連性が無さ過ぎる・・・)
行き当たりばったりですが
最近「お約束」をすると、もれなく「出来ない」人間なので
無論克服したい(めいわくかけてしまうので・・・)と思いますが
まずは、「案ずるより産むがやすし」の精神を
学びたいと思ったので。
楽しめたら、最高ですね。
悩んだら、儲けもんですね。
体調崩したら、対処の方法が一つ広がりますし、
それに、孤独で行くのではないので
大きなチャンスだと思います。
(いつもながらなのですが)がんばりますとも!!
ほどほどにね。苦笑
ながたありという人間は
言葉を正式に「習った」時に
まず最初に、言葉で「表現」することが楽しくて仕方ありませんでした。
まだ、ながたという人間を、少なくとも嫌悪していなかった時代です。
月日を重ね年月を経、「評価」という尺度の元、
ながたは「言葉」を失いました。
もう、長い間、ながたは「閉じこもって」いました。
無論全てではなく、
そもそもながたという生物は
自己表現ことに自分の感じた「世界」を人に伝えたいという「欲」が
良しも悪気も強いため、それがいろいろ妨げになったこともあったのだと、推察しています。
今、ながたという人間は、たくさんの人に守られ支えられ
もう一度天岩戸を自ら開けようとしています。
そして、その一つの現れが、「言葉」を取り戻しつつあることだと、感じてやみません。
ながた自身、生き物なので、感情もムラもあるし
欠点をあげればきりがありません。
でも、生き物であり「己の世界を伝えたい」という欲がある以上
今の自分よりいくばくか背伸びしたことも
言葉に出したりします。
それが、鼻についたらごめんなさい。
もし、傷に触ったらごめんなさい。
私はもう、嘘はつきたくないし、自分も大事にしたいから
自分の「言葉」を出します。正直に生きたいと思います。
もし、苦しいことがありましたら、この「カテゴリ」は
閲覧されないように願います。
わざわざ足を運んでいただいたのに、
このような形でしか対応が出来ない現状につきましては
大変申し訳ありません。
それでもなお、この「戯言」につきあっていただけるのであれば、
どうかよろしくお願いいたします。
堅苦しい内容で申し訳ありません。
何しろ天才肌とは正反対の理屈で凝り固まっている左脳人間故。
不躾無作法お許しください。
前置きが長くなりました。
次より「作品」に参ります。
元旦にあり。と諺にありますが。(漢字、合ってますか?)
今日の私はといいますと。
いつもの通り、だらだら惰眠をむさぼり
何故か「鳥居をくぐらなければ大丈夫」との助言により初詣
(本当にいいの!?喪中なのに・・・)
イオンなどショッピングモールで散財しまくり
コンビニに作品をプリントアウトしてきました。
ええ、「特別」な一日ではなく
いつもより少し「活動的」な一日でした。
それ以上でも、以下でもない。
いつものとおり、いつのもように。
きっと今年も、去年と同じように
山あり谷あり、笑いあり涙あり
いっぱいいろいろあって
いっぱいいろんな人を傷つけて
いっぱい自分も痛めつけて
そして、その奥の「たからもの」を取り戻す一年になるんでしょうね。
うん、なれたらいいな。
私は、人がだいすきだから
本当に人がだいすきだから
その分、怖いから、ひきこもりにもなるし
自分勝手に他人に刃をも向けるけど
やっぱり人のぬくもりには何も抗うすべを知らない。
そう「だいすき」だから。
その感情を「取り戻す」ことが出来たのは、去年。
今年は何がプラスされるんだろう。
こんなわくわく、生まれて初めてかもしれない。
ときめきとか、ゆめとかそういうのじゃなくて
自分自身に対する「期待」という名の
己を嫌悪していた生物が、水を得て
新しく持つことのできた「カテゴリ」。
そして、本来備わっていた「想い」。
泣いても、叫んでも、絶対、生き抜いてやる!!
生ぬるく、見守っててくれると、ちと、うれしい、かな。です。
疲れると思うので、つかず離れず?みたいな。うん。
無理は、してほしくはないので。絶対に。
今年も、よろしくお願いいたします。
どうしようもない、でも糞真面目に馬鹿がつくほど真剣など阿呆劇場を。
どんな色に染まるんでしょうかね(笑)
みなさんも、お身体に気をつけて
良い一年になりますよう心よりお祈り申し上げます。
ご拝読賜り誠にありがとうございます。
いくぞー!!(空回りにならなきゃいいけどね~。笑)
最近、やっと人間らしくなったなぁと肯定的に感じられるようになりました。
勿論、様々な問題はあるのですが。
まず、そうめんダイエットが成功しつつあります。
今年の9月で80kgを超えていたウェイトが、
今日現在70kg代前半で安定(停滞)しています。
「今こそふんばるときだぁ!(笑)」
でも、今日はお菓子バリバリ食べましたけどね。
このダイエットのミソは二つあるんです。
一つは食べるときは食べる。
そうすると必要以上に食べたくなくなるんです。
そして食べたくないときに、ちょっとずつ量を減らしていく。
その、減らした量を3日間耐えてみる。
3日目が一番きついですが、
それを越えると次の日の朝から食欲が収まっているのに気がつきます。
そして二つ目は、(これが一番大事)
ズバリ「ありのままの自分を認めてくれる人」を見つけること。
恋人でなくても、尊敬できる人でも何でもいいです。
とにかく、自分が「この人が好き!」って思えて、
その人からも、「大事にされてる」と感じることです。
傷ついた心は、飢えているのと同じことで、
その渇きをありとあらゆる方法で潤そうとします。
それが食べ物だったり、人だったり、嗜好品だったり
自分の「悩み」につながることと直結していることがあります。
それを解消するには、私の経験の知る限り
「傷ついた対象でしか克服ができない」と思うのです。
この「対象」というのは、
「人」で傷ついたりつまづいたりした人は、
「人」で癒され導かれ立ち直る。
そういう意味で言っています。
たとえば、過去にAさんという人がいて、
その人に自分が傷つけられたとしましょう。
Aさんと直接わかりあうことも、理解しあえることも、
出来れば良しに越したことはないと思います。
が、Aさんと交流しあえない場合もあると思います。
しかし、Bさんという別の人が「自分」を認めてくれた。
「こころ」の中にまさに届いたと感じた時に、
傷跡は残っていても、疼きが残っていたとしても、
その傷をなぜることができるように
いつの日か いつの日か
年月を重ね、なると思うのです。きっと。
「人によって受けた傷は人によって癒される」まさにそういうことだと思います。
まだまだ、青二才の若輩者なので偉そうなことを言ってしまい申し訳ありません。
ちなみに、この「人によって~」自体は本を読むと結構出てくる言葉ですが、
私は全然信じてませんでした。
でも、病気になってから様々な人と繋がりを持つことが出来て、
共感した人や、感銘を受けた人、
そして今なら理解できる沢山の「差しのべられた手」の存在があった事実。
きっと今、こころに届いた人の存在があるのは
背後に沢山の素敵な人たちがともにいるからだと思うのです。
いつも、見守っていてくれてありがとう。
これからも、ヘタレながら頑張ります。でもほどほどに。笑