ながたあり
現在精神科に通っているひとりの「病人」です。
また、付け加えるなら、「ばらつき」有ります。
「障害」と、言えるのかもしれません。
自身、会社に勤めていたときに
病気や障害の事を知ったのがきっかけで
精神科の門を、叩きました。
それから、8年。
最初は自分は「病気」であり「障害」を持つ人間だと
病名や障害にこだわり続け、ていたのです。
が、ことに昨年(2011年)の9月から
様々な方を通して接していくうちに
すこしずつですが
こだわりのレールが、柔らかくなっていきました。
・・・気づけば
「病気かもね。障害かもね。
でも、それも、わたしよね。」
なんて、言える様、なってるんですわ。
じぶんでも、お~どろきです。
恩師に再開した折に「この口が言うかぁ」と
感慨深げに言われました。
教えてもらったことばなんですが、
「障害・病気とか『枠』に当てはめる
この場合、自分から自分で『壁』を
『限界』を、築いているんだよね。」
このことば、すぐに飲み込むこと、とても難しかったです。
今も、考えています。
ただ。
とても、うなずけるのです。むりなく。
枠って、当てはめると、白と黒分かれますし
逆に、全く枠が無いのも、途方に暮れてしまいますけど。
もし、枠が必要で、自分がそれに当てはまらない場合。
すべてが出来「無く」とも
そばに近「づける」事の可能性
有るんじゃないかなぁって、思うんです。
そのために、回り道するかもしれないけれど
そのぶん、経験が重なる。
いらないかもしれないけれど
あったって別にもんだいない
無駄にも意味、有ると思います。
私は、ことに最近の発達障害の見出しが
あまり好きではありません。
(掘り下げませんが「個性至上主義」もどうかと・・・)
「えじそん」とか「とくべつ」とか・・・
エジソンはなんで発明家だったのか。
些か暴力的な発言かもしれませんが、
ただただ発明が好きだったんだと、個人的に考えます。
彼の発明で有益と認められる1つの発明の後ろには
100個の無駄と言われた発明が有るというエピソードを耳にしたことがあります。
彼は、100個だろうと1000個だろうと、ただただ、つくり続けただけです。
勿論人間だから、欲だってあっただろうけど
一番の欲は、追求する心だったんだと、思うのです。
彼のすごいところは、発明「し続けた」ところだと思います。
その執念が、ひとつの形に結びつけたのだと。
だから、障害すべてを、いわゆる「美化」する形に
あっていいのだろうかと、疑問を抱きます。
そのまんまで、いいんです。
だれかに成ろうと、しなくても。
これ「こそ」、だいじなんかじゃないかな、と。思うわけです。
いっぱい、まよったから。
これだけは、言いたい。
まちがってるかもしれないけれど。
とりあえず、今、この答えを、出した。
また、変わっていきたいから。
・・・未熟者のつぶやきに、耳を傾けて戴き
誠にありがとうございました。
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