ありのままでいいんだよ
そのまんまでいいんだよ
巷で耳にする
あるいは本屋さんで帯にあるような
ポピュラーな、言葉ですが。
ながた個人も、このブログで載せていたりしますが。
(自分をげんきづける!?な感じ・・・無責任。)
・・・こいつはもう
解釈の違いで、どえらいことになる言葉でも
あるんだなぁって思います。
ありのままでいいんだよ
だからといって
自分の感情にながされて
自分も人も傷つけるのは
違うような気がして、ならないし
自分の欲求のおもむくまま
人を無視して進むのは
些か暴力的だとも
思うから。
感情や欲求に対して出てくる行動で
自分や人が、傷ついたり、悲しんだり、苦しみあったりするのは
きっと行動を起こした本人さんが
行き詰っているところなのだろうかと
葛藤しているところなのだろうかと
おぼろげながら、感じます。
ある子が「目立ちたい」と言っていました。
「お笑い芸人」めざすんだと。
私はその子が、実は少し、心配です。
その子は「目立ちたい」あまりに
自分の思いを人に強要することがあるからです。
実際に、「笑えよ」って
しばしばその子は言葉にすることがあります。
・・・もしほんとうに笑えるのであれば、すでに笑っているだろうし、
笑いという感覚を強制されても、判らないものはわからないし、
少し、息苦しくなってしまうから(私の場合)。
「わらわせたい」と願うのならば
まずは、人を見ることからなのかなぁって
その子から教えてもらいました。
すぐに「わらえる」ネタを具体的に創り上げられるか
どうかというのはまた別の問題ですが。
相手の反応を「見る」というのは
とりあえず、自分を「魅せたい」感情を
ひとまずおろしてからできることのひとつで。
後は、何回もスベッても、とにかく試すことかなと。
試して伺って、考え・思いついて、また試す。
それが楽しめたら、お笑い芸人に一歩近づけるのかなぁなんて考えてみました。
そもそも楽しくなかったら、つらい「作業」でしかなさそうだし。
無理を押し付けるのは、観客である場合
私は見に行きたくないから。(こころせまいんです。)
お笑い芸人にならなくとも
コミュニケーションで、「聞く」という姿勢は
とても大事な要素だと、日々、痛感しています。
聞くに限らず「受動的」な姿勢の主たるものは
引いて、行うというところが見受けられます。
受動、能動のバランスに至っては
コンプレックスや癖、自分が嫌いであればある程
取りずらいもなのだと、日々日々、感じます。
欲求の後ろに「不満」がつくの、納得してしまうくらい。
まんぞくしてないから、「したい」と思う、願う
大事なことだと思います。
「したい」ことはひとそれぞれだとおもうから
自分ばかりが「したい」を出していても
ずっと「したい」を押しこめていても
どの道、どこかでほころびがでて
本人を傷つけてしまうのであるなれば。
出来る限り、避けたいことのひとつです。
自分のイヤなとこ、不満とか
すきになるのはたやすいことではないと思います。
ありのまんまでいいんだよ
自分を好きになる言葉ではないと思います。
自分を受け止める為の導入口のひとつなだけで。
最初のうちの入り口だから、幾重にも解釈をつけれるし
いつもいつも、違う考え方が思いつく
そんな言葉だと思います。
もし、私的につなぎをつけるのを許されるのであれば
ありのままでいいんだよ
うなづけない性質を持っていても
そのまんまでいいんだよ
自分がどうしたいかは次にきめればいいんだよ。
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